| マツバが目を覚ましたとき、ミナキの姿は既に其処になかった。それは毎度のことであったのだけれども、彼を夢に見ない夜が徐々に減っているマツバにとっては、徒に心を噛むだけの辛い朝には違いなかった。マツバは布団に顔を埋めた。其処には未だ彼の温もりや香りが残っているような気がした(実際、彼と夜を過ごした証拠は消えずにあった)。 部屋に置いてある小さな机の上、見慣れない装飾の小物が乗っていることにマツバは気付く。不思議に思って其れを手に取ると、ふわり、快い香りが鼻を擽った。精神を静められる思いのするこの香りを、マツバはよく知っている。 「ミナキくんの、匂いだ…」 常用しているオーデコロンをミナキは置き忘れていた。 マツバは辺りを見回して、誰もいないことを確かめると、それを恐る恐る手の甲にひと吹きした。忽ち広がる香りに少し慌てるが、何も焦る必要はないのだと思い直すと、そっと手の甲を顔に近づけてその香りを堪能した。流れる水に顔を近づけたならきっとこんな香りがするに違いない。 鼻が慣れてしまうために、魅惑の時間は直ぐに過ぎてしまった。それに、手の甲に香りを移しても、手を洗えばそれは消えてしまうのだ。服でも同じ事だ。しかしどうにかこの香りをとどめておく方法がないものだろうか、とマツバは思案する。結局何も思いつかず、闇雲に空に吹きつけるも、液が無くなってしまうと事だと思って止めた。 「こら、」 手にした小さな陶器に主人が心奪われる理由が、そのゴーストにはさっぱりわからないらしく、そしてまた嫉妬でもしたのか、難しそうな表情をして手の中の香水入れを睨み付けていた。 「返すんだ。それは…」 そこまで言って、突如マツバの心にある邪心が芽生えた。 (香水入れの持ち主は、近日中、毎日使う物を忘れたことに気付いて取りに戻ってくるだろう。ぼくはそれを知らないふりをする。このジムにはゴースト系ポケモンが多数いるから、彼らが取っていってしまったのかもしれない、とぼくはゲンガーに探すよう言いつける。勿論、見つかりはしない。なぜならぼくが隠し持っておくからだ。どうしても見つからないとなれば、彼も諦めるしかないだろう。そうすればこの香水瓶はぼくのものになる)
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その翌日、マツバの予想通り、ミナキは忘れたオーデコロンを取りにエンジュへと引き返してきた。マツバはそれを素知らぬ顔で出迎える。やあ、どうしたの、何だって。白々しい物言いにならないよう細心の注意を配りつつ、寝室へと案内する。そしてそれに続く対応も、すべては計画通りだった。何も収穫が得られずうなだれて舞い戻ってくるゲンガーに、ごめんね、と心の内で呟いた。 「確かにこの部屋で身支度をしたはずなんだがな…」 腕組みをして考えるミナキに、マツバの胸がちくりと傷んだ。彼を騙しているという後ろめたさが波のように打ち付ける、しかし波はすぐに引く。大体、別れの挨拶もしないでぼくを置いて出ていくなんて、あんまりじゃないか。これくらいの物は貰っていいだろう、ぼくにはその権利があるはずだ。マツバは後ろ手に持つオーデコロンをぎゅっと握りしめる。ねえミナキくん、ぼくは、とってもこれが欲しいんだよ。 「どうしたものか…」 (彼が探し続けるというなら、もう一泊くらいしていってくれるだろう。それなら願ったり叶ったり。もし諦めるというなら、晴れてこの香水はぼくのもの) 「では後一日だけ探してみるとしよう。あれがないと特に困るという訳ではないのだが、どうも落ち着かないし…泊めてくれるな?」 目論見通り、とマツバは思ったが、 「しかし、この部屋、…どこかで嗅いだ匂いがすると思わないか?」 その言葉で、マツバの顔から血の気が引いた。どこかで嗅いだ、だって?自分の香水の香りくらいわからないはずがない。 (そもそも、この部屋には彼の香水を沢山吹いたんだから、昨日の今日で香りが残っているのは当たり前だ。そしてその部屋にいたぼくにも香りは移っているはず。…すると、彼はぼくが出迎えたときから気付いていたんだろうか?ぼくは匂いに慣れてしまってわからないけれど、きっとものすごくきつく香っているに違いない。そんなぼくが彼の香水瓶の行方を知らないだなんて不自然にもほどがある) 「……」 「まあ、一晩泊まれば、きっと戻ってくるだろうと思うんだがな」 (やっぱり、彼は最初からわかっていた!…) マツバはその手を再び後ろに戻した。ミナキは振り向いてにこやかに笑い、時計を見ると、おやもうこんな時間か、食事にしないかと言って、済まなさそうに俯くマツバを促した。 「……ごめん」
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マツバが目を覚ましたとき、ミナキは隣で規則正しい寝息を立てていた。マツバは彼を起こさないようにと気をつけながら髪を梳いて、額に軽く口付けると、オーデコロンを元あった場所に置いた。どこからか射し込む日光の眩しさに小さく驚き、朝とはこんなに清々しいものだったろうかと思う。 |