| 血の黒ずんだような空の下に、深い紺色の海が重々しく横たわっていた。波止場に立ちつくした私の周囲を潮風が吹き流れる。私はその場で、言葉もない儘、ただ眼前の景色を見詰めていた。 時が経ち、辺りは俄に単色じみた。地平線は遥か遠いはずなのに、人々の無機質な光のビーズは今にもこの掌にこぼれ落ちてきそうなほど近くに感じられる。夜空には星の瞬く場所もなく、地上には破られたルールしか無かった。 きっと君は知らない。この眺望、天をも恐れぬその営為、伝説を伝説たらしめている原因を。 だから、君の瞳は、そんなにも綺麗なのだろう。
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「本当に澄んだ眼をしているな、君は」 突然の賛辞に、彼は少し驚いたようだった。それからふと優しく笑んで、どうしたの急に、と相変わらずのんびりした口調で言った。彼は、私の脱いだマントを軽く畳んで、その上にタイを置いた。彼と二人でいるとき、私はそれら二つを必ず外すようにしていた。そうしないとくつろいだ気持ちにならないだろう、という彼の言い分に従った、一種の決め事である。 私は昨日の風景を思い出す。見るものの心を沈ませる、鈍重なブルー。その上に煌めく人工の光。きっと、君は、知らないのだろう。 「どういうことさ、」 確かにぼくは、何も知らないけれど。彼が訝る。心の中だけで呟いたつもりが、知らず知らず口に出してしまっていたようだ。 「何でも、無い」 私は自分の失態を、笑った。そう、どうということはない。幾ら海の色が暗かろうと、心ない光が夜を支配しようと、それが一体なんだというのだ。私に関係あることか。自分が何を思い、何を考えているのか、自分でもよく解らなかった。 今日のきみはどこか変だね、と彼は言った。どうしてそんなに、疲れているんだい?
(----------------美しい。)
彼が私の名前を呼んでから、私は漸く相手から手を離した。
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その夜、私はまんじりともせずに、布団に潜ってとりとめのないことを考えていた。すると、行かなければ、という観念が急に私の中から湧き起こった。私は、此処に居ては、いけない。 彼のためにも、私は此処に居てはいけない。廊下に出る襖を、ゆっくり、右に寄せた。
「何処へ、行くんだい?」
彼の声に、心臓が跳ね上がった。隣の部屋で、彼の立ち上がる音。玄関まで、走れば逃げ切れる距離だった。しかし、自分の足は先程の声に竦んでしまって、一歩も踏み出せなかった。 「…ちょっと、トイレに…」 尖った口調に私は思わず後ずさりした。私は、此処を離れなければという脅迫めいた思いで頭が一杯だったらしく、灯りも消していなければ、布団も片づけ忘れていた。瞬きの後、平衡感覚が一転して、前方に天井が見えた。タイを外され首を圧迫していた物がなくなったところで、私はやっと、自分が組み伏せられていることに気付いた。
我が儘だって、わかっているけど。彼は絞り出すように声を出す。 「此処に、居て欲しいんだ」 頼り無げに、私を押さえる彼の腕。私はもう一度彼の頬に手をやった。そして、どちらからともなく、口付けあった。彼の整った顔を浮き上がらせる仄かな灯火。 私の見たのは此とは似付かぬ、夜空をも明るく照らす無慈悲な光だった。あの波止場で私の胸を掠めた想いは何だったのだろうか、と私は思う。その時の感情が、今自分を突き動かしているような気がした。
(鈍色の水溜まり/砂混じりの疾風/硬質の光)
どれも、此処にはないものだった。だがそれを懐かしいとは思わない。決して特別な風景ではないそれらに、私は何の思い入れも抱いていない。ただの有り触れた現実でしかなかった。
(失意、寂寥、郷愁……)
と、私は一つの感情に突き当たる。しかし、それを何と呼べばいいのか解らなかった。 「私は、行かなければ、ならない」 共有したい。私の経験したこと全部を、彼と分かち合いたいと思った。 「君の瞳が、このまま、」
此処に居れば、いつか私は君を連れ去ってしまう。
「----------------美しくあるためにも」
暫くの沈黙の後、彼は震えた声で、ぼくには解らない、と言った。だろうな、とわたしは力無く返した。透き通った海水が、彼の眼から滴り落ちた。 |