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【 平成元年】

和中勝三(ワナカ カツミ)

昭和、23年12月17日生

 趣味は、旅行、釣、スポーツが大好きです。
高等学校卒業後、化学工場に就職。

会社へ勤務している時は、ソフトボール/卓球をよくしていました。

年3回の連休には、かならず友人達と旅行に行きました。

車で走り回る旅行が好きで、友人と国内の殆ど走り回り、楽しい思いでとして心に残っています。

 昭和、5310月、結婚。

昭和56年子供が2人目産まれてから、13年間勤めた会社を退職して鮮魚商を営む。

● 3人目の子供も無事に保育園を卒園して、小学2年生になり、7人家族で幸せな家庭生活を送っていました。

 平成2年9月頃

鮮魚商の仕事に替わって10年が過ぎ、商売に慣れて来て、やっと一人前になり、商売の面白さが分かってきた所でした。

【身体に少し異変を感じる】

1)右手の握力低下に気付く。

2)身体がダルイ。

3)よく腰痛をおこすようになる。

4)力こぶが出なくなり、筋肉がピクピクし始める。

平成3年2月頃

市内の整形病院で診察を受ける。

 右手の握力は25kgに低下。

 左手の握力は35kgに低下。

身体の様子は、夜寝ても朝起きると疲れが取れないし、肩凝りがひどくなってきました。

手が冷たくなると痺れ、湯に手をつけて温めてもすぐ冷たくなる。

平成3年9月

和歌山労災病院へ10日間検査入院しました。検査内容は、MRI/筋電図/胸部レントゲン/脊髄液の検査/血液検査/肺活量/握力の検査を終り、急激な脊髄の老化と説明を受けました。正式名は運動ニューロン疾患とも説明。(家で普通の生活をしてください。と言われる)

腕が重たくて肩より上にあがりにくく、服を着るのが精一杯にまで進行。

検査入退院から退院をしてリハビリに通う。

家でも、ぶらさがり/腕立て10回/2kg ダンベルで腕の運動を毎日するようになる。

リハビリが強すぎたのか、2週間程すると身体の力の衰えが早く、リハビリをする意欲も失いガックリ。

  病気に負けまいと、強いリハビリをしたのが逆効果でした。 

平成4年4月

和歌山県立医大、八瀬教授を紹介してもらい月に1回通院。

八瀬教授から、軽いリハビリをするように進められ、「千頼会医院」花岡先生を紹介して頂き、ふたたびリハビリを受けに通院。

 Maru  車の運転危なくなり、運転やめる。

【リハビリの内容】

 四肢関節を軽く曲げ延ばし運動。

  腹式呼吸のリハビリ

 『腹式呼吸は、軽い呼吸困難の時には役に立ちます』

平成49月末「天理よろづ相談所」20日間検査入院。

私が気のすむように検査をしてもらいました。

【入院中の様子】

 (1) 右手の握力は殆ど無く食事の時にホークでも食べにくくなる。

 (2) 腕も上がらなくシャツが着られなく手伝ってもらう。

 (3) 足の運びが悪く、よくつまづくようになる。

 (4) 入浴も介助が必要。

 (5) 呼吸は衰えず、肺活量は4,000ml 有りました。

 主治医は妻に病気の告知をするが、妻私に告知をして下さいと先生に頼む、私はALS筋萎縮性側索硬化症」の説明を受けました。

私が思っていたとおりの説明に納得した半面ショックが大きく、それ以来、自分の寿命は長生きしても後3年と心の中で覚悟をする。

★ 精神的に不安定になりイライラする日が多く、妻にあたる事が多くなりました。

● 天理よろづ相談所の入院中に「特定疾患医療費受給者証」の申請を済ます。

◆ 退院する時に主治医の先生から、日本ALS協会近畿ブロックの存在と、近畿ブロック会報を教えて頂きました。

  退院後すぐに協会にはがきを出して会報を送ってもらいましたが、少し開いて見て写真を見ると、皆さん呼吸器を着けている姿ばかりで、私も呼吸器を着けるのかと思うと、早く死ぬ方がましだと思い呼吸器を着けるのは嫌だと拒否しました。

平成5年 四国八十八ケ所参り。

友人達に誘われて、悩んだ末に決心しする。

私は最後の旅行と思い参加する気になりました。本当に最後の旅行になりました。

お参りに行くからには、八十八ケ所全部周りたいと思いました。友人達に世話になりながら(6月/7月/9月)と3ケ月で12日間かけて周りきりました。

● 足に立つ力がありましたが、平行神経が悪く両脇を支えてもらわないと歩けません。階段300段位なら一気に登れる力が残っていました。

【左から4番目が私です】

 

八十八ケ所参りに行って体力は衰えましたが、友人達に励まされ支えられながら楽しく周り終えた事で、外出する自信がついたし、気持が開き直りALSに向き合えるように精神的に強くなりました。

平成5年、握力低下の為にトイレで転倒して頭部打撲、5針縫う怪我。

風呂場に行く途中つまづいて転倒して、肋骨3本骨折する。
(それ以来、家の中で移動する時も介助が必要になる)

 

平成6年8月、世界リゾート博覧会

 

 【リゾート博(サモア広場)長男と長女】

平成612月、気管支炎になり、リハビリの花岡先生に電話をして「済生会病院」南方先生を紹介してくれ診察を受けました。

南方先生は、ALSに熱心な先生です。

私は、この時に初めて呼吸の苦しさを体験しました。

この時から呼吸に危機感を感じるようになり呼吸器を付けるか、付けないかで悩み苦しみました。

私は、まだ呼吸器を付ける自信がなくて拒否していました。

自分でも病気の進行が手に取るように分かり、自分の最後の時が見えてきたような気がして、最後は、呼吸困難に襲われ、のたうちまわって苦しんで死ぬのかと思うと、死ぬのが怖くなってきました。

握力が弱くなり握力計で測定不可能になる。

  改造ホークが使えなくなり食事の介助が必要になる。

  肺活量2,500ml に低下、常に息苦しさを感じるようになってきました。

    家族の同意を得て呼吸器装着することを決める。

平成74月頃になると、妻にパソコンを勧められて、花岡先生に頼んで協会からパソコンを貸して頂けるように頼んでもらいました。そして数日後、日本ALS協会近畿ブロックから、水町さんと豊浦さんが(MSXパソコン)を持って来てスイッチとパソコンをセットして頂きました。

平成76に南方先生から「生協病院」の畑先生を紹介して頂き、後日、診察に行きました。

7月になると、口から唾液がよく出るようになって吸引器を購入、これから唾液の吸引が始まる。

8月に入って食事の飲み込みが悪くなり、食事を食べると気管に引き込み、食後には身体を横向きになって背中を叩いて痰を出すようになり、体力の低下が激しく呼吸も苦しくなるし、体重を計ると20キロ減っていました。

821、急に呼吸が苦しくなって、生協病院に入院しました。

 
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