| 行き先 | 掲載日 | 概要 | |||||||
| 篠ノ井線 | 2011/12/3 | 松本と長野を結ぶこの山岳路線は、明治35年に開業したものの、有数な地滑り地帯であり、大正13年には大規模な脱線転覆事故を起こした。昭和63年に長大トンネルをくぐる新線が開通したため、廃線となった。 | |||||||
| 犬島 | 2011/9/26 | 海運が運送の主役だった明治の頃、本州の大都市近郊ではなくこのような離島に銅の製錬工場を建てるのがコスト面で有利だった。 しかし、銅の価格の下落により10年で廃墟になったという。 |
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| 筑豊南西部 | 2011/9/8 | 明治の間日本の産業の中心だった間のある筑豊の炭鉱住宅なども、朝鮮人の強制労働による大量死などの負のイメージのためか、産業遺産に認定されることなく撤去されるものが存在する。 | |||||||
| 片島魚雷 発射試験場 |
2011/5/17 | 大正七年に建てられ、戦争終結とともに役目を終えた。建物の中に木が生えているという点で、川南造船所と共通しているが、川南よりも洋風建築の色彩が強い。 | |||||||
| 川南造船所 (伊万里) |
2011/1/4 | 振り上げた拳の下ろしどころが分からない太平洋戦争末期の日本がとった選択は人間魚雷の発射であった。遠くから潜望鏡で目標の方向と距離を確認した後は潜って盲目的に自爆装置を押すという戦法は、もはや戦争に勝つためのものではなく、戦争を少しでも長く継続するためのものだった。外からハッチを閉めると中からは脱出できない構造になっているため、訓練中の浸水による溺死などが頻発し、その戦績は、輝かしい前途のあった若人100人以上の命に対して、わずかに船3隻であったと言う。 | |||||||
| 戦争の遺構が消え行くのは自然な風化によるものだけではない。人間魚雷回天を作っていた工場は、戦争の悪いイメージが残るという理由で長崎の軍艦島とは異なり2011年度中に撤去することが決まった。 | |||||||||
| キャンパス | 2010/11/20 | 青春時代を過ごした学舎が数年前に移転になったが、その後、旧キャンパスもまだ使われているような印象があったので、安心していた。ところが去年学会で再びキャンパスの横をバスで通り過ぎたとき、廃墟然とした雰囲気に変わっていたので驚いた。今年再び学会でこの地を訪れたので、小型の折りたたみ自転車と共に途中下車してみた。歩いて移動できるほどの範囲をさまよっただけなのに、気付いたら11キロの道のりを移動していた。 | |||||||
| 松尾鉱山 | 2009/8/17 | 明治から昭和にかけて硫黄を産出し、1970年に時代の波にのまれて閉山となった。最盛期には15000人が暮らした。美空ひばりも訪れて、ふもとの街盛岡をしのぐほどの栄え方だったと言う。団地と言えるほどの数の住宅が残っていることに意義がある。住民が退去して40年。これが、かつて雲上の楽園と言われた場所の、1年で一番光り輝くはずの真夏の昼下がりの光景だろうか。 | |||||||
| 板谷峠 | 2007/8/19 | 新幹線の開通で廃止になった鉄道の峠越えの代表は碓氷峠である。碓氷峠では途中に駅がないため、アプト式と呼ばれる歯車で強引に坂を上った。これに対し、板谷峠では途中に4つも駅がある。そのため、歯車を使う代わりに、駅を本線から離れた水平な土地に作り、SLが助走をつけて坂を登った。新幹線の開通とともに、勾配上に新しく作ったホームを新しい電車が強力なモーターで強引に発車するようになった。そして昔の駅が全部そのまま廃墟となった。峠と言えば観光地化した碓氷峠ばかりが注目されるが、福島山形県境という豪雪地帯に位置するため、スノーシェッドといういかにも東日本的な建造物が存在するフォトジェニックな場所である。 | |||||||
| 魚野川 水平歩道 |
2007/8/19 | 群馬、長野、新潟の3県が接する典型的な東日本の山岳地帯にあるダム建設用の鉄道の廃線跡である。80年代に出版され山サイクリングを紹介した全国版の本にも紹介されているほど有名なコースで、九州の某サイクリストも行ったことがあると言う。 | |||||||
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