柳原白蓮
本名はY子。父の伯爵・柳原前光(さきみつ)が
鹿鳴館の舞踏会で踊っている時に生まれたことからきらめくごとく美しい娘になるようにと「Y子」
と命名したそうです。柳原前光は戊辰戦争で東海道先鋒総督をつとめたり、西南の役では勅使となっ
たりとした名門の公家華族でした。前光の妹の愛子(なるこ)は明治天皇の侍妾で大正天皇の生母で
すから、Y子は大正天皇のいとこに当たります。
一方、生母のおりょうは柳橋の芸者でしたが、幕府軍艦である咸臨丸で初めてアメリカに渡った使節団
の一員、幕臣奉行の新見豊前守正興の娘です。維新になってからの幕臣の零落は珍しいことではなく
おりょうも家のために芸者に出たのでした。
いずれにしても、藤原北家の血を引く由緒正しい貴族を父に、外国奉行の娘を母としてこの世に生を受
けたY子には平穏な人生を歩むことは叶わなかったのかもしれません。
しかも、その後、駆け落ち同然に一緒になって生涯を共にした宮崎竜介は左翼思想家の宮崎滔天の息子
でした。明治10年の西南の役の折、その鎮圧の勅使に立ったのが父の前光で、西郷軍には滔天の兄が
いて戦死したという経緯もありました。柳原家と宮崎家は相容れない主義のもとにあり、Y子はその
宮崎家の中で生を全うしたのです。
しかし、宮崎家に於いてのY子は華美とは別れを告げて、結核となった竜介の代わりに必死に書き続け
家計を支えたのです。そこには専任の着付師を従えていたかっての姿は微塵もありませんでした。
一人息子はあの太平洋戦争で戦死し、一夜で白髪となった上、全盲となり、竜介に支えられながら歌
を詠むことだけを生き甲斐に81歳まで生きました。昭和42年の2月22日没。
《娘時代》| ことさらに黒の花などかざしみる わが十六のなみだの日記 「私の運命は十六にしてひそかに灯された小さな胸のあかりを無惨に打ち消された恨みからはじまる。思わぬ人というより、腹立たしい人に、大人たちの身勝手なはからいで身を奪われたところからはじまる。あぼとき私に勇気があったら必ず死んだであろうもの」…『永遠なれ、魂の青春よ』より 幼時より遠縁にあたる子爵北小路随光の養女となり、十六歳でその子資武と結婚させられたのです。 「思いやりのない周囲の人々から、ごみために掃き捨てられるような安易さで、私の肉体を食べたい食べたいと舌なめずりしている男の前に供えられ」「若く美しい女の腹から生まれたままの私の肉体はむしばまれ、さんざん荒らされたけれども、ついにそこを逃げ出した」 |
《再び嫁いで》初婚に破れたY子の元には幾つもの縁談が持ち込まれました。二度と結婚 などしたくないもののそれは許されることではなく「自由にお金が使えて、女 学校の経営を任せてくれるのであれば」と遠く筑紫の国の石炭王と言われ ている伊藤伝右衛門の元に嫁ぐことになりました。石炭で財を成した25歳 も年上の成金に華族の姫君が嫁ぐのですから話題にもなり「金で買われた 結婚」と世間を賑わせました。 |
《筑紫の女王》
| 幸袋本邸の自室にて |
伊藤家の客間。Y子、初枝、初枝の夫 |
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伝右衛門に慈しまれ、贅沢三昧の日々を送り 「筑紫の女王」と呼ばれていました。しかし、 深窓育ちのY子には馴染めないことが多く、 家庭内の改善に努力をしますが反って孤立して いきました。心の空白を埋めてくれたのは 短歌で、文化的なサロンを開くようになります。 短歌に満たされない思いを込めていく内に 文学的嘘が事実の如く一人歩きを始めました。 |
別府の別荘「赤銅御殿」敷地は五千坪 |
《恋の逃避行》| Y子が書いた戯曲『指鬘外道』が好評を博し、上演されることになりました。 この写真はその打ち合わせの模様を写したものです。左から宮崎竜介、初枝、Y子です。上演に向けて会う機会が ふえて、Y子と竜介の仲は急速に深まっていきました。そして、恋の逃避行へと突き進んだのです。 下の写真は逃避行前後の東京駅での二人です。 |
《紙上公開状》| 大正12年10月22日。大阪朝日新聞朝刊にY子から伝右衛門への絶縁状の大きな活字が躍りました。これを皮切りに派手な報道合戦が繰り広げられました。 ◆『筑紫の女王』伊藤Y子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿をくらます 愛人宮崎法学士と新生活? 有識者達の反応は賛否両論。 この時、Y子は妊娠していました。姦通罪があった時代のこと、大きな賭けにでたのかもしれません。 |
《生きる》| |
華族の籍を抜かれてはじめて人間らしい普通の暮らしを手に入れたY子でした。結核で倒れた竜介に代わり趣味だった筆の道で家計を支えました。(写真右) 左の写真は逃避行の時に妊娠していた息子との平和なスナップです。 貧しさの中で母として妻として人間として充実した日々を自分の手で獲得したのでした。 |
《添い遂げて》
| 「母はいつも書いていました。寝ても覚めても原稿用紙と向かい合っている母の姿を見ました。それ以外の母はなかなか思い浮かばぬほど必死で、生きて、書いていたようです」と娘さんは語っています。 息子に戦死されて平和への願いを訴え「慈母の会」を作り、『ことだま』という歌誌を主宰して歌道の精進を重ねとY子は一途に平和運動に献身していきます。 脳貧血で倒れたり、緑内障から失明という悲運に見舞われながらも竜介に支えられながら世の中の動きに関心を持って少しでも役に立とうとしていたといいます。 昭和42年2月22日に波乱に富んだ生涯を終えました。82歳でした。 そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちにみつ (辞世の歌です) |