祇園女御

ぎおんのにょうご
生没年不明

『平家物語』の巻六に「祇園女御」という章があります。この章では平清盛の生母であると描かれて います。では、清盛の父である忠盛の奥さんだったのでしょうか。そういう説もありますが、いろいろな 資料を総合してみますと、どうもそうではなかったようです。

祇園の女御は白河法皇の寵臣 だった藤原顕季の遠縁に当たる女性で三河守・源惟清の妻でありました。顕季は寵臣ではありましたが、 身分の高い出身ではなかったので参議にはなれなかったのですが、祇園の女御の夫も蔵人としてやっと 院への昇殿を許されていた程度の地位でした。それも女御との絡みで白河院の好意からでした。
それなのに、法皇は惟清を「法皇を呪詛した」として伊豆に配流してしまいます。
要するに、祇園の女御は源惟清の妻で下級の官女として白河法皇の御所に仕えていたところを法皇に 見染められた訳です。妻を取られた惟清は法皇を恨むようになり、法皇は後の禍根を断つべく惟清に 呪詛の罪をかぶせて伊豆へ追いやってしまったのでしょう。

白河法皇は数年前に最愛の賢子中宮に先立たれ心の隙を埋めるために側近の女性たちに次々と手を 出していたのですが、祇園の女御を愛するようになって、ようやく心の溝も埋まり落ち着かれたので す。法皇は祇園の近くに邸宅を作り惟清の妻を住まわせ女御にも匹敵するような扱いをされたので、 いつしか人々は祇園の女御と呼ぶようになっていきました。でも、いかに愛が深まっても法皇は 正式な女御とはなさらなかった。それは、彼女の出身が低い身分だったからです。

祇園は形こそ愛妾でしたが白河法皇の愛情が深まるに連れて実質的には妃や中宮にも劣らない権勢を 持つようになります。法皇が祇園の近くに彼女のために邸宅を建てたことからいつしか祇園の女御と 呼ばれるようになったのです。
祇園の願いで阿弥陀堂が建てられましたが、立派な阿弥陀像が安置されてその供養には院の殿上人の すべてが参列するという盛大さ。また、祇園の使用人を傷つけたとしてご自分の重臣の従者であるにも 関わらず重い罰を与えられたなどと法皇の祇園への思い入れは深かった事は史書にもたくさん書かれて あります。
それだけ祇園を愛しながら法皇はちょこちょこと身近な女性に手をつけます。
この頃、平忠盛は院に仕える武士でその関係から祇園とも面識がありました。院は身ごもった女性を 「生まれたのが女の子ならば引き取ろう。男の子ならばそちの子として立派な 武士に育てるがいい」と忠盛に下賜されました。
この当時はこうして下賜されるということは大変 に名誉なことだったのです。
生まれたのは男の子でした。それが清盛です。母親は祇園の妹とも 侍女だとも諸説がありますが定かではありません。『平家物語』では妹説が採用されています。
祇園の女御は子供のできない体質でした。もし、法皇の皇子を生んでいたら日本の歴史は変わって いただろうと言われています。女御は母性愛溢れる女性だったのでしょう。祇園は生母を三歳で亡くし た清盛を引き取って育てる一方で子沢山の言大納言・藤原公実の生まれたばかりの末娘を所望して猶子 としました。
猶子というのは養子のようなものです。
この末娘が後の崇徳天皇、後白河天皇を生ん だ待賢門院璋子です。
ここでも、清盛や璋子が祇園の猶子にならなければ歴史が塗り替えられていただろうと思われます。 祇園の背後には白河法皇が控えていて、それゆえに祇園が大きな権力を握っていたからです。
晩年の祇園に関する資料は残されていませんが東御方(ひがしのおんかた)、白河殿と呼ばれて 仏教三昧の恵まれた生涯を送ったものと思われます。