清盛の娘たち
 

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長女 藤原信隆室
生没不詳

おそらく重盛の同母姉ではないかと推察されています。重盛が1138年の生まれです からそれ以前の出生ということになり、その頃の平家はようやく忠盛が内昇殿を許された時期です。 忠盛と清盛父子はは勢力拡大のためにさまざまな手段を講じます。
そうした背景の元、長女は後 白河法皇の近臣である藤原信隆に嫁がされました。そして、信隆にとっては五男にあたる隆清を生み ます。隆清は参議まで登りましたから彼女の人生に大きな波乱はなかったのかもしれません。

和歌や絵画、花結びなどに優れた才女でした。その上、宗教心が強くて持仏堂に入って、毎日『法華 経』を唱えていたそうです。
この人についての資料はこの程度しかありません。もし、長命で 平家没落まで生存していたとしても、おそらく同行はせずに持仏堂で祈りの日々を送っていたものと 思われます。


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次女 藤原兼雅室
(1151〜?)
 
母親の素性は不明です。八歳の時に藤原通憲の子の成範の許嫁となったりました。 ところが、成範が「平治の乱」で捕らえられて下野国に流されたので自然と解消されました。その後、 花山院の左中将・藤原兼雅の妻に迎えられました。
一説には、兼雅が成範の妻に恋いこがれて譲 り受けたとありますが、それだけこの次女が美人で知られていたということでしょう。
この人は美しいばかりでなく、有数の絵の名手でもありました。勅命によって紫宸殿の御障子に 「伊勢物語」から主題を取った絵を描いたと伝えられています。
兼雅(左大臣)との夫婦仲はよく、 忠経(右大臣)、家経(中納言)ら数人の子供にも恵まれ幸せな一生をおくったようです。
その没年は不明です。


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三女 建礼門院徳子

  建礼門院の項をごらんください。


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四女 藤原基実室
(1156〜1179)

盛子(みつこ)。母は不明です。
十六歳の若さで関白となった藤原基実の元に嫁ぎました。ところが、基実は 盛子が十一歳になった、仁安元年(1166)に基実は二十四歳で病のために急逝してしまいます。翌年、盛子は高倉天皇の准母とされ、准三后の礼遇を賜りました。 邸宅が白川にあったので「白川殿」と呼ばれていました。

基実の遺児の基通を養子として後見人となります。 その後、基実の異母弟で摂関家の跡継ぎとなった基房の妻に迎えられるような動きがありましたが これは実現しませんでした。おそらく盛子は病に伏すようになっていたのでしょう。夫の基実と同じ二十四歳の若さで薨じました。洛東の中山で 荼毘に付されたとの記録が残っています。
なお、琵琶の名手で秘曲「流泉」「啄木」という難曲までも伝授されていたということです。


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五女 藤原隆房室
(1157〜?)
 
母は平時子で、徳子(建礼門院)と同母妹です。
四歳の頃には既に、平治の乱の首謀者 だった権中納言・藤原信頼の子の信親の妻となっています。三歳で妻とは考えられないことですが、 父・清盛の政治的配慮から政略結婚させられたのでしょう。しかし、信頼が乱に破れ断罪され、五歳だった 信親にはお咎めなしとなりましたが、この縁組みは自然解消されました。五歳と四歳のめおとは乳母を 交えておままごとでもしていたのでしょうか。

十五歳になりますと改めて藤原家成の孫の隆房に嫁ぎました。家成は鳥羽法皇の絶大な寵愛を受けて 朝廷に於いても大きな力を持っていましたし、清盛にとっても大きな後ろ盾でもありました。そうした 長年の背景があって隆房は大の平家贔屓でしたので妻としては恵まれていたものと思われます。一子、隆衡 を生みました。
ただ、この隆房は恋多き人で「小督」との高倉天皇との三角関係でも有名です。高倉天皇のお后が 実姉の徳子だったので隆房の妻としては複雑な思いであったことでしょう。この時、清盛は娘たちを 思うあまり小督を出家に追い込んだそうですが、あの清盛の父親の顔が覗き見られたような気がします。

時は流れ、平家は滅亡しました。文治元年(1185)の春、壇ノ浦で生き残った人たちが京都に護送されて きました。その中に建礼門院も居ます。隆房夫妻はいたわしい姉を迎えるために何日も準備をしていました。 源氏方の目を恐れることなく最後まで建礼門院のお世話が出来たことを隆房の妻はどんなにか感謝し たに違いありません。
この人は、稀に見る箏琴の名手だったということですから、寂光院を 訪ねては姉を慰めたりしていたのかもしれません。


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六女 藤原基通室
(?〜1199)
 
完子(さだこ)。母は不明です。
摂政関白・藤原基通の正妻です。基通は姉の盛子が嫁いだ基実の息子です。おそらくは摂関家との 婚姻関係を重視していた父の清盛が基通が元服するのを待ってのお輿入れだったものと思われます。

完子は和歌に巧みでした。また、とても肌が美しくて水晶の玉を薄衣に包んだように透き通って 見えたので清盛も基通も「衣通姫」(そとおりひめ)と呼んでいたそうです。
男のが生まれ、 基通が関白となると北政所と呼ばれ、従三位に叙せられました。やがて、基通は摂政関白の 位置に上り詰めます。若くて美男だった基通は後白河法皇にとても寵愛されていたので出世も早かった のです。

寿永二年(1183)、平家が都落ちすることになります。完子は安徳天皇にお供して 都を後にしました。当然、平家よりの基通もお供するはずでしたが、基通は後白河法皇がご一緒され ないのを知って平家に危惧を感じ途中から引き返してしまいました。

基通の予想通り平家は滅亡しました。完子が建礼門院たちと都に護送されて戻ってきたきた時、基通は 後鳥羽天皇の摂政という位置にいました。基通はどのようにして妻の完子を迎え入れたのでしょうか。 興味の引かれるところですが、多分、完子は自分たち一族を裏切った基通を許すことができなかった のではないでしょうか。

完子の晩年の資料は残されてはいませんが、出家して一門の菩提を 弔っていたのでしょう。時には寂光院を訪ねて建礼門院との語らいのひとときをもったに違いありません。


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七女 廊の御方
(1161〜?)
 
母は常磐御前です。常磐御前は源義朝に愛されて義経たち三兄弟を生みました。 「平治の乱」の後で幼い子供たちと共に捕らえられ、子供たちの命を助けるために一時的に清盛の 寵を受けたということです。その時に生まれたのがこの廊の御方。母に似た美しい女性だったよう です。

平家が都落ちした寿永二年(1183)には二十三歳頃で、一門と行動を共にしました。そして、異父兄 の義経に護送されて壇ノ浦から都へと戻ってきました。その頃、母の常磐は大蔵卿藤原長成の後妻と なって都に居ましたから、きっと再会したことでしょう。三人で会ったのかもしれません。

その後、この人は異母姉の嫁ぎ先の藤原兼雅の邸に女房として仕え、三条殿と呼ばれるようになります。 それが、どうしたことか、兼雅の娘を生みます。男女の仲は今も昔もわからないものです。

この人は、和琴の名手であるばかりか、能書に大変な才能があって、お手本を欲しがる人々が色とり どりの料紙を持ってきたとか。あまりの多さにとてもい書ききれず、その為に、彼女の傍にはいつも 美しい色の料紙が置かれていたので、周りに錦を敷いたような有様だったということです。
最後は趣味に生きた佳人ということでしょうか。その没年はわかりません。


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八女 御子姫君
(1163〜1182?)

母は厳島の内侍です。この内侍というのは厳島神社に奉仕する巫女のことですが、 遠路、参拝に来た人々を接待する役目もありました。清盛はこの内侍の懐妊中に、平家の大番頭に あたる平盛国の子の盛俊に与えました。なんとも妙な話ですが、この頃は権力者や目上の人の女性を 下賜されることはとても名誉なことだったのです。清盛も、白河法皇が懐妊中の女性を清盛の父に 下賜して出来た子供だとされています。
清盛は内侍を与えたものの生まれた娘は自分の手元に 引き取りました。それが、姫御子君(巫女の生んだ姫君の意)です。

高倉上皇が崩御した後、後白河法皇は上皇の后の建礼門院を所望されたようで、法皇との関係修復に 躍起となっていた清盛夫婦も事を運ぼうとしました。ですが、建礼門院にきっぱりと断られてしまい ました。とても、夫の父親と再婚することはできなかったのです。その心情がわかるだけに、清盛も 無理強いはできず、その代わりに御子姫君を法皇に差し出したのです。

こうして十八歳の御子 姫君は女御の入内の時のように華やかに行われました。遊女にさえ子供を産ませている法皇にとって 若い姫御子君がふさわしくないということはありません。ですが、なぜか、法皇はこの姫をあまり愛 されませんでした。姫は和歌やお琴は上手ではありませんでしたが、美貌にすぐれ男性であれば心 魅かれる女性です。やはり、相性というものがあるのでしょうか。
結局、御子姫君は薄幸の佳人、入内後寂しい思いの中で短くも十九歳の生涯を閉じたのでした。





簡単に、清盛の娘八人の生き様を紹介してみました。
この当時、武家というものは平家も源氏も女性には処罰を加えませんでした。ですから、平家の生き残りであっても女性たちは、環境に大きな変化はあっても迫害されるようなことはありませんでした。
中でも特に、藤原兼雅、隆房、信隆など高級貴族の妻たちは環境もさほど変わりもなく、平家の女であるという誇りを持って、建礼門院を見守りながら、世の中の推移を眺めていたのでしょう。