みすゞのさみしさ


みすゞの詩は読み返す毎に寂しさが増してくる。
孤独なのではない。寂しいのだ。
尾崎放哉という俳人の句に「咳をしてもひとり」という句があるが、 ここには深々とした孤独がある。
放哉は絶食によって自殺した。深い孤独と対峙しながら己の命が朽ちてゆく様を冷徹に眺めて俳句に昇華していった。
インテリ男の“生の探求の果て”の四十二歳での死と二十六歳での薬による死とでは比較できるものではないが、ここに孤独の果てと寂しさの果てにとの 違いを私は感じてしまう。
では、みすゞはどうしてそんなにさみしかったのか。
独断と偏見ながら自分なりに考えてみたい。
みすゞの詩には王様、女王様、王女、王国などの単語がよくでてくる。 これはシンデレラ的な発想ではなく、統治者への憧れを意味しているのだと思われる。つまり、生まれ落ちた場所に馴染めないという不当感があったように 感じられてならない。それは、生まれてきたくはなかったという恨みに繋がっているのではないか。それゆえに、現世においての夢も希望ももてず、少女の心を 持ったままあの世へと急いで旅立ってしまったとも言えよう。
違和感
最初にみすゞの三巻の詩集を読み終わったときに何か違和感を感じていた。

詩集を開く前に矢崎節夫氏の「金子みすゞの生涯」を読んでいたせいであろうか。みすゞという詩人の情報は充分すぎるほど頭に入っていた訳で、それと同時に氏の視点を 通してのみすゞ像がインプットされていたからだろうか。

みすゞには「美しい町」「空のかあさま」「さみしい王女」の三冊の詩集がある。

「さみしい王女」 が結婚してからの作品集だそうだ。この中に我が子のことを素材にしたもの、我が子へ語りかけているような作品が見当たらないことが違和感を感じた原因だとようやく気づ いた。

命と引き替えに守るほど大切な子供であれば当然ながら「ふうちゃん」がらみの詩が幾つもあっていい筈。

確かにふうちゃんという娘のカタコト言葉 を集めて「南京玉」とタイトルをつけたノートも残っているというが、これは、夫から詩作を禁じられての後の何かを書かずにはいられない詩人の業のようなものだろう。 それを詩に昇華しようとはしていない。

また、カルモチンを飲んだ日に写真屋に行って写真を撮っている。
自殺を決意し子供のために残そうと考えたのであれば 子供と一緒に撮るのが普通ではないのか?みすゞは子供を連れて知人の家に出かけており(最後の挨拶?)わざわざ、帰宅して母親に子供を預けて写真館に出向いている。 もしかしたら、遺影用にとの思いがあったのかもしれないが…。一枚くらいは子供と一緒に撮りたいものなのではなかろうか。

みすゞにとって出産は予定外の出来事 だっただろうという人もいる。
「この子さえ居なければ」という場面に何度も遭遇していたのではないか。理性では可愛いが感性では疎ましい。みすゞにとって子供はそ うした存在ではなかったのかと想像してしまう。

同じように、弟の正祐を素材にした詩も二人の関係からすればずいぶんと少ないように思われる。慕ってくる「坊っ ちゃん」と呼ばなければならない弟が鬱陶しかったのではないのか。だが、一読者として賛辞を与えてくれる存在としては貴重だったのだろう。

「金子みすゞの生涯」 が主に正祐への取材によって書かれているので真実のところは想像で補うしかない。正祐自身の思い違いや思いこみがどの部分なのかが見えてこない辛さが残る。兄の堅助に 話が聞けたり、何か書き残しておいてくれていれば、みすゞの生涯も違った本になったのではないかと思う。

それゆえ、この本の中のみすゞ像が定着してしまうこと に危惧を感じるのだが、歴史とか著名人の伝記というものはえてしてこういう成り立ちで後生に残されてゆくものかもしれない。
みすゞの場合でもその詩の解釈一つで人 物像にある種の色づけがされていくのだから。

詩集の贈り先
みすゞは三冊の手作りの詩集を二部作ったという。一部は西条八十に送った。もう一部は正祐に送ったとれ ているが兄の堅助を通して娘のふさえに遺したのではないかという説もある。
というのもテルの死後のふさえの真剣を巡っての松蔵と啓喜の父親との往復書簡が残されて おり、そこにはテルの遺志が明確に示されている箇所があるからである。

「さて過去のことはお互いご承知の通り又申上げる必要もこれ無きが、この上は私の考えに ては故テル子の意思に基づき仙崎金子堅助方は妻を貰い請けてより八年に相成り候えどもいまだ子供これ無き故同家の養女としてお返しくだされ候えば至極仕合致す御事と察 し候…」
これは松蔵の書いた手紙である。ここには「故テル子の意思に基づき」とはっきり書かれている。
テルとミチの母娘関係を考えるとテルが母のミチに娘を託 したいと思ったとは考えがたかったので、至極、納得がいく。

テルが生きた証はふさえと詩集である。この二つは当然ながらセットになっていなければならないのだ。
だから、ふさえに付随した一組の詩集は堅助の手からふさえに渡るようにテルは準備していたと考えるのが妥当だと思う。

みすゞと母
テルには母が二人居る。現実の母と空想の中の母だ。
 みすゞ=テルの作品には「母」が登場するも のが非常に多い。「我が子」の登場するものを探せないことを考えると、彼女が母親になりきれずに娘のままで生涯を終えてしまったのではないかとさえ思わされる。
…生まれ落ちた場所に馴染めないという不当感があったように感じられてならない…と先に書いたが空想の中の母恋しもこの延長線、いや、むしろ、それが原典だったのかも しれない。




『冬の雨』
(この詩は現実の母の姿だろう…)

   「母さま、母さま、ちょいと見て、
雪がまじって降っててよ。」
「ああ、降るのね。」とお母さま、
 ―氷雨の街をときどき行くは、 みんな似たよな傘ばかり。


「母さま、それでも七つ寝りゃ、
やっぱり正月来るでしょか。」
「ああ、来るのよ。」とお母さま、

―このぬかるみが河ならいいな、
ひろい海なら、なほいいな。

「母さま、お舟がとほるのよ、
ぎいちら、ぎいちら、櫓をおして。
「まあ、馬鹿だね。」とお母さま、
こちらを向かないお母さま。
―さみしくあてる、左の頬に、
つめたいつめたい硝子です。




『天人
(この詩は空想の中の母だろう…)

ひとり日暮れの草山で、
夕やけ雲をみてゐれば、
いつか参った寺の中、
暗い欄間の彩雲に、
笛を吹いてた天人の、
やさしい眉をおもひ出す。

きっと、私の母さんも
あんなきれいな雲のうへ、
うすい衣着て舞ひながら、
いま、笛吹いてゐるのだろ。




『舟のお家』
 (この詩はテル=みすゞの生涯の出発点ではないのかと思う)

お父さんにお母さん、
それから私と、兄さんと。
舟のお家はたのしいな。

荷役がすんで、日がくれて、
となりの舟の帆柱に、
宵の明星のかかるころ、
あかいたき火に、父さんの、
おはなしきいて、ねんねして。

あけの明星のしらむころ、
朝風小風に帆をあげて、
港を出ればひろい海、
靄がはれれば、島がみえ、
波が光れば、魚が飛ぶ。

おひるすぎから風が出て、
波はむくむくたちあがる、
とほいはるかな海の果、
金の入日がしづむとき、
海は花よりうつくしい。

汐で炊いだ飯たべて、
舟いっぱいに陽をうけて、
帆いっぱいの風うけて、
ひろい大海旅をする、
舟のお家はうれしいな





少なくとも、この頃のみすゞに空想の母は必要なかった。家族四人 で自然と闘い睦みながら感性を磨き, 幸せを満喫しているように感じられる。ここにも弟が出てきていないのは注目に値するのかもしれない。だが、この幸せは長く続かなかった。 父の死に始まる人生行路の強制航路変更を余儀なくさせられたのだ。略歴ほかで詳細を書いたので、ここでは省略するが父親の死から本人の自殺に至る まで背後には松蔵の影を感じてしまうのは私だけだろうか。
決して松蔵が悪いのではない。多分、運命というものなのだろう。そうは思うものの正祐が 松蔵に貰われていったあたりから、或いは、書店経営に母を取られたあたりからみすゞは不条理というものに染まっていったのだろうと考える。現実の 母は自分を見てくれない。だから、理想の母を創造する。誰にでもあることだろう。それが詩として残された。それだけ…。
みすゞのさみしさはこの頃 から少しずつ積み重ねられていったのだろう。更に、母が弟の養子先へと嫁いでいったのだから、思いはさらに複雑になっていった。母の気持ちが わからない。もっと、自分を見て欲しい。
母は、娘の詩が雑誌に掲載されたことは喜ぶが、どうやら松蔵に気兼ねばかりして娘への想いを押さえる姿勢 を見せていたのだろう。なぜなら正祐がみすゞに恋心を抱いてしまったからだ。母は松蔵と正祐のものであった。みすゞは母を求めていた。現実の母を 欲していた。そして、それを与えられなかったためにみすゞは母親になることが出来なかった。私にはそんな風に思われてならない。
亡父の代わりのよ うに自分を大切にしてくれた兄が守っていてくれた内はまだ心の安定を保つことができたのだろうが結婚してしまわれると自分だけの兄ではなくなり、その 幸せを考えると同じ家には暮らせない。いや、同じ家の中に居るのも苦痛だったのだ。兄に決別したみすゞは母の元に行く。そこには、やはり、母を 恋う思いや期待があったに違いない。


自立と自殺
みすゞには奈良女子大学への推薦入学や、多くの文学者たちのように上京して働きながら仲間と研鑽してゆ く道など山口県を出ていく機会が何度かあった。結婚と離婚を決意したときも正祐は上京を勧めている。そう、みすゞは全くと言えるほど、夫の実家の熊本以外には山口県を 出てはいないのだ。本屋勤務であれば「青鞜」などの雑誌も読んでいただろう。ましてや、その二代目の編集長の伊藤野枝は福岡県の出身で下関に暮らしていたこともあるから 話題にもなっていたろう。
資質と言ってしまえばそれまでだが、「女の子だから私ばかりが叱られた」という詩を書きながらも女性解放運動には全く興味を示していない。 多分、自分の小さな心の中の問題だけでいっぱいだったから社会へ目を向ける余裕がなかったのだろう。それに加えて、幼時から蓄積されてきた無常観のようなものがある種 の諦念をみすゞに植え付けてもいたの違いない。この街でささやかなしあわせを得ることが出来ればそれで満足できそうだったのかもしれない。もしかしたら、この街を飛び 出しても苦労が同じ分量だけあることを知っていたのだ。

西条八十の童謡を見てこれなら書けそうと、たいした努力もしないまま(だから天才という人もいる)その 御大に認められたことはみすゞにとって幸せなことだったのだろうか。それを踏み台にして哀しい街から飛び出すこともできただろうに…と、同じ事を思ってしまう。毎回の 投稿作品が入選することで投稿仲間という友人ができたことで、それだけで満足だったのかもしれない。自分を認めてくれる人ができたことがどんなにか嬉しかったことだろ う。だが、それも御大八十がいてのこと。その批評がみすゞのフアンを作っていく。みすゞは筆まめに八十へは勿論のこと、投稿仲間にも長文の手紙を書き続けた。それは、 自分自身へのラブレターであった。手紙を書く相手の向こうに自分が居た。

やがて、なぜか八十が遠ざかっていき、詩集を出版する夢も消えた。当然ながら家庭の 事情も病気のこともあっただろう。詩を書くことを禁じられたから書かないというより、もう、書く気力が失せていたのではないのか。
勤めていた店経由で文通を続ける 知恵を持っていたみすゞである。八十の態度の変化を敏感に察して、もう、自分のことを受け入れてくれる人がいなくなったと、その思いが生きる気力さえをも無くさせた。
精神科の医者によれば、自殺は自己否定の手段ではなくて、むしろ、自分を変えないための自己保存の手段であるという。死ぬことによってしかみすゞは自分を守ること ができなかったということになる。

結局、みすゞ=テルが愛したのは自分だけであったのだ。たくさん、たくさん努力はしたけれど、他者を受け入れる余裕がなか った。受け入れて欲しいと思う人で受け入れてくれる人が西条八十一人であったことも哀しいが、そのたった一人もが離れていったとき、自分を守るためには死ぬしかなか ったのだろう。

死を決意して撮った写真と年譜の頁の二十歳の時のそれを見くらべてみればその切なさに胸を打たれる。
テルは松蔵に、みすゞは八十に殺された と、脚本を書いたときにはそう結論を出したのだが、今は、さみしさから身を守るために死ぬことの自由を選んだのだと思うようになっている。

最後にみすゞの詩の 中で私が一番好きな「あさがほ」を紹介して、資料の中で出会った金子みすゞとお別れする。

≪あさがほ≫
青いあさがほあっち向いて咲いた、
白いあさがほこっち向いて咲いた。
ひとつの蜂が、
ふたつの花に。
青いあさがほあっち向いてしぼむ、
白いあさがほこっち向いてしぼむ。
それでおしまひ、
はい、さやうなら。
 





  
   参考文献&写真
「金子みすゞ全集」(JULA出版局)「金子みすゞの生涯」(矢崎節夫著・JULA出版局)文藝別冊「総特集金子みすゞ」(河出書房新社)
「金子みすゞ」「金子みすゞと女性たち」(江古田文学)