津川『雲はどこへ行った』

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 正午の鐘が鳴ったので、ぼくは配給所へ行くことにした。

 配給所の近くには、もう既に五十人を越える人たちが集まっている――これじゃあ水を手に入れるのは無理かもしれない。

 昨日は第四ドームで暴動が起きたという。どうせ配給がらみの騒動だろうけど、公式発表では‘理由不明’とされている。政府は何時だって本当のことを言おうとはしない。

 五分もしないうちに配給官がやって来た。昨日の暴動のせいだろうか、ただでさえ仏頂面の顔が余計に不機嫌そうだ。彼が来るまでの間にも、配給を求める人の群れが大きくなっている。もう軽く百人にはなっているはずだ。

 配給官は、とじられた紙束を取り出し、おもむろに数枚めくると、声をはり上げた。

「本日の配給――純水、二十七缶。植物性固形食料A式、五十二袋。同B式、三十四袋。動物性固形食料三十八缶。

 尚、特別配給として、合成栄養補給剤を配布するものとする」

 ……特別配給は別にして正統に考えれば、百五十一人が何かを手にすることになる。でもそんなことは有り得ない。暴動のようなことにはならないにしても、小さな争いなら毎日のように起こるんだから。合成栄養補給剤は確かにすぐれた栄養バランスをもっているし、水分の摂取量が必要値に満たなくても体を機能させる手助けをもする。だけど、そんなものだけじゃ生きていけないということは誰でも気付いてる。第一、体が最も欲するものは栄養なんかじゃない――水だ。水が全てを制するんだ。

 そんなことを考えているうちに、僕の番がきた。

「居住エリア、B-3。居住地コード、648-2。個人識別コード、103847-9-2。

 純水一缶の配給を希望します」

 純水の配給は終了しました、そんな言葉が返ってくるはずだ。それを承知で僕は言いきってやった。けれども、配給官の言葉は違っていた。

「配給コード、312-69。品目コード、10-1。

 純水一缶を配給」

 僕はよっぽど意外そうな顔をしていたらしい。まだ若い配給官が、小さくささやいた。

「純水の配給基準が厳しくなったんだ――お前、情報管理局の掲示板を見てないのか?

 それにしても、今度の新基準で純水の配給が受けられるなんて、運のいい奴だな」

 配給官はニッと笑った。気に障る笑い方だったが、少なくとも僕が今まで見た配給官の中で、一番人間臭さを感じられる気がした。

 配給基準の改定は、僕の覚えている限りではこれで五度目だ。回を重ねるごとに、基準――特に純水の――は厳しくなってきている。それだけ状況が厳しいということだろう。

 海が干上がり始めたのがいつなのか僕は知らない。

 僕が生まれた時には、既に陸地は砂漠と化し、人類はドームの中にいた。現在では、海水は一部の海溝の奥にしか存在しない。ドームの外の空気中の水分も、あるとは言い難いほどの量で、だから僕は本物の雲を見たことがない。

 資料映像で見た「雲」は、白くて大きくて空に浮かんでいるものだったけれど、あれが水だとは到底信じられない。なんでも、もっと昔は「雨」というものもあったという。天から水が降ってくる現象――想像すら不可能だ。

 居住ドームの中は、適度な湿度に保たれている。管理システムがうまく循環機能をはたらかせているからだ。

 もっとも、過去の資料を見ると、以前は適正湿度が今より遥かに高かったらしい。僕たちの体の適応能力が、湿度の低い中でも生きてゆけるようにしているのだろうか。

「ケンジ。どうしたの、ボーッとしちゃって?」

 ふと目を上げると、ミサトが僕の顔をのぞきこんでいた。

「あ、うぅん。別になんでもない。

 それより、純水の配給が受けられたんだ」

「本当?」

 ミサトは、驚きと嬉しさの入り混じったような声で言った。

「水、か――随分久し振りよね」

 僕が「開けてもいいよ」と缶を差し出すと、ミサトは早速グラスを二つ持ってきた。

「乾杯」

 グラスが、ちりんと鳴った。ミサトは、十数日振りの純水を、慈しむようにゆっくりと飲んでいる。僕は、そのままグラスを見ていた。

「早く飲みなよ」

 自分のグラスを干し、ミサトは僕に言った。そして
「あたし、情報管理局へ新基準のチェックに行ってくるね」
と、外に出ていった。

 僕はしばし純水を、この化学合成による純水を見つめた。ドームの外からやってくるガラス越しの太陽の光に水はキラリと光った。

 僕は一気にグラスを空けた――水が、体を走るのが分かる。僕はそのまま目を閉じ、雲という空に浮かぶ水のことを、雨という空から降る水のことを思った。

 しばらくして目を開けた僕に、まっさきに見えたものは、ドームの外の空に浮かぶ、何やら白いものだった。

「雲?」

 僕は数度まばたきをした――白いものは、もう見えなかった。

 きっと幻だ。雲を見たなんて、どうかしてる。そう、雲なんて存在しうるわけがないんだ。

 自分にそう言いきかせるのは、何故か少し哀しかった。

 それから数分後、戻ってきたミサトが告げた。

 最後の海溝が、ついに干上がったそうだ、と。

- 了 -


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