大滝は、はっと気が付き左を向いた。
……今日のJリーグの結果は柏レイソ……
街頭の文字ニュースがスポーツ情報を伝えていた。
――しまった。もう野球は終わった……。
大滝は舌をちっと鳴らした。“見えるラジオ”を買わなくてはならないかと思う。
そう思う度に、大滝は頭を振る。
――いやいや。別に結果を知りたいわけではない。観戦できないのが問題なのだ。
最近大滝は勤務中に野球のニュースを聴く度に、同じ考えに捕らわれていた。抵抗がなく受け入れた深夜勤務であったが、思わぬ弊害の出現に戸惑っていた。
自分の野球に対する渇望がこれほど強いとは思いもよらなかったのだ。今まで夜のプロ野球のニュースを見ることが楽しみであることは自覚できていた。しかし、テレビ観戦できないだけで、勤務に軽度とはいえストレスを覚えるとは、予想もできなかった。
“まさか”という感慨が浮かぶ――と同時に、“やはり”と思い当たることではある。
野球というものが自分にとって欠かせないものとなっているのだ。
大滝の脳を瞬間的に過去が覆う――。
地に張り付いている冷気を踏んで、屋内グランドで行われるノック!
寒気から逃れて肉体を酷使する、北国の野球訓練の風景であった。
大滝の通っていた高校の野球部はスポーツ特待生で構成される、甲子園出場を義務づけられたセミプロ集団だった。日本西部の強豪校打倒を掲げる、野心的な学校である。
そこで大滝は1年生で5番、レフトを務めていた。激しいポジション争いの果てに獲得したものであった。プロ野球での活躍さえも嘱望される存在でさえあったのだった。
風が眼に触る……。
大滝はふと、現世に意識を戻す。過去を見つめていた大滝は、自分が路上で足を止め、瞠目していたのがわかった。乾燥した眼を指でしごきながら、大滝は辺りを伺った。
195センチの男が、路上で呆然としていたのでは注目をひくこともあるだろう。
だが、幸い誰の注視を受けていない。
巡回の規則として“決して目立ってはいけない”とされていた。
――ふ〜っ!!
大滝は大きく嘆息をつく。
勤務に必要な緊張感を取り返しながら、自分の責任の大きさを認識し直した。
1ヶ月後に到着する本隊のために、警らのマニュアルを製作しなくてはならない。
――自分が警らのガイドラインを画一しなくて、誰がやるというのだ?
東京の夜を把握し、特殊な任務をこなすというのは簡単なことではないと思う。
それもこれから導かなくてはならない連中は、東京に不慣れでどころではない、北海道のド田舎からやってくるのだ。道内から出たことがない筋金入りである。
大滝は覚悟も新たに、歩を進める。営団地下鉄・銀座線を沿うように外堀通りを歩く。新橋から虎ノ門を抜け、青山を目指す。
時は深夜10時――。新橋を離れると直に人が見当たらなくなった。途中、左手に金刀比羅社が見え始めたら左に曲がる。一旦銀座線上から外れて、六本木通りに入った。
大滝は顔から緊張感を消す事を意識した。
――ホテルに帰るか、大使館の宿舎に戻っていると映るよう装う。
大滝が懸念するのは、この辺りがもっとも警官に呼び止められる可能性が高いからである。国会議事堂を始め、各省庁施設・警視庁舎も遠くないのだ。
警察に目を付けられてはいざという時に、任務に支障をきたすことも考えられる。
警官であるのに、警官に目を付けられてはならない――。
因果なものだと、大滝は思う。自分達の存在の特異さを突きつけられるように感じる。
そう思っていると、2人の警察官が道の先にいるのが目に入った。
自転車に乗っていた青年を呼び止め、調べているようだった。盗んだ自転車がどうか確認している。――さらに調べている最中に怪しい点があれば、追及するという常套手段を施している最中と鑑定した。
大滝は警官の脇を通り抜ける時に、敬礼をしたい気持ちを抑えながら微笑んだ。通常のパトロールもしんどそうだと察した。
中でも路上で倒れている酔っ払いの回収などはご免被りたいと思う。
大滝は東京ビッグハットを右手に見ながら、六本木通りをさらに進む。
ここから断然、人が多くなる。
新宿と六本木は日本でも不夜城と呼ばれる賑わいを見せていた。黒人、白人、東南アジア人も数多く歩いている。
大滝は、六本木交差点に立ち、黒人の客引きやプロポーションの美しいモデル嬢達に戸惑いながらも、どこか安堵感を覚えていた。
――ここでは自分は目立たない……。
自分の容姿が特別でないことが嬉しかった。北海道から来る連中も、同じ思いを抱くだろうと想像した。
大滝の容姿は日本人離れしていた。
眉から鼻にかけるラインが太く高く――頬骨が鋭利に顎に向けて伸びている。瞳はコゲ茶色、髪の毛は灰色に近かった。
西欧人の面影が色濃くあるが、肌色と顔の表情が日本人らしさを醸し出していた。
周囲から純粋な外国人と思われないまでも、ハーフとみなされることが多い。
実際、大滝はハーフであった。
父の名はハイネマン。ドイツ人である。
大滝は父に会ったことがない。写真でしか顔を見たことがなかった。
自分の出生を考えると、父を青年期には激しく憎んだが、今は違う。父の数奇で、呪われた運命を把握するとしかたないと思えた。
――父に比べれば、自分はまだ幸せだ
そう思えることも少なくない。
ただ野球のことを絡めて、父を思うときは憎悪だけに心を支配された。
自分の中に流れる暗黒の血脈が、日の当たる場所で野球をすることの邪魔になったことを心から拭いきれずにいる。
――自分は先祖の肉体的優性を遺伝しなくても一流の野球人であったはずだ!!
死にきれていない野球魂が、大滝の中で激しくのたうつことがある。
歩行用信号が青に代わる――。
大滝はアマンド前の六本木交差点を乃木坂方面に渡った。酔客や客引きを巧みにかわしながら進んでいく。
そこで大滝は思いかけない人物に会った。
関西の私鉄が運営する球団に在籍する野手――酒向尚志が、数人の仲間とあるビルに入っていくところであった。東京ドームで試合のあった選手は頻繁に六本木に出没する。
「あっ!」
大滝は驚いて声を出した。
酒向は大滝と同世代に、青森で活躍していた高校球児だった。“弘前の牛若丸”と呼ばれ、チームを甲子園のベスト16に引っ張っていた。
今は万年Bチームの準レギュラーである。
有名選手ではない酒向であったが、大滝には忘れようのない存在だった。同年代で活躍した選手には少なからず思い入れがある。
そんな大滝は、酒向に会って何か一声でも掛けたいという衝動にかられた。
いつも応援してします!――
声は喉まで出掛かった。しかし止める。
西欧人くずれにファンだといわれても、面喰らうだけだろうと大滝は思う。大滝は、勤務中だということを自分に言い聞かせた。